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あひるの日記

あひるの日記

礼拝のメッセージ2004/4月分

4/4(日)のメッセージ
ヨハネ12:12~26 一粒の麦という生き方

今年は、PASSION(キリストの受難)という映画の影響によって、世界中のキリスト教会は大きなインパクトと衝撃が与えられ、刺激を受けている。
今週は受難週ということで、私たちはこの「受難」について考えていきたい。
この聖書の箇所は、イエス様がエルサレム入場について記述されている。
当時は過越しの祭りの期間で、ユダヤ人は自分たちをヘロデ王の支配下からメシアが自分たちを解放して下さると信じてたし、弟子たちにとっても晴れがましい思いで興奮してたことだろう。
しかし、これらの出来事にどんな意味があったかについては、後になるまで弟子たちはわからなかった。
イエス様が栄光を受けられたのは、王として人々に迎え入れられてエルサレムに入場したときではなく、十字架にかかって復活して天に帰られたときである。
私たちが思い描いていた成功・栄華とイエス様が思い描いている栄光とは異なる。すなわち、私たちの思いとは異なる方法でイエス様は生きておられる。このすれ違いから、私たちは葛藤が生じ、神様のことが分からなくなる。
私たちは時として、自分の願望・願いに死ななくてはならない。
この自分の願望・願いが大きければ大きいほど自分が今までやってきたことにむなしさを覚え、燃え尽きてしまうのである。
私たちの内で生きてきた願望・願いが死んだときに、私たちは改善され、癒され、回復して豊かな実を結ぶのである。
私たちの古い願い・生き方に死に続ければ、私たちは行き続け、神様の祝福を体験していく。
しかし、私たちの内にある古いものが死に続けていく(あるいは捨てていく)には、深い葛藤が生じることもあるし、多くの場合私たちはそれに負けてしまう弱さをもっている。
だから、私たちは神様から助け出してもらう以外に方法はない。
霊的な悟りが来たとき、私たちは古い生き方を捨てることが出来る。
真理が私たちを自由にする。
私たちは、一粒の麦という生き方をライフスタイルにしていくべき。

4/11(日)のメッセージ
復活と私たちの新しい人生 第1ペテロ1:13~21

私たちの信仰生活の核⇒イエス様の十字架と復活
イエス様が十字架にかかってくださった
⇒私たちの罪のためにイエス様が身代わりとなって下さった。
聖霊が私たちに触れられるときに、私たちは罪の意識を覚える。

私たちはイエス様を信じた者は、その罪が明らかにされていくときに、十字架を見上げていく選択をする自由が与えられている。
私たちは、気づいている罪を放置していくことで大きな問題が起こる。
イエス様を通して私たちは罪から開放され、死ではなく命に生きる(=新しい人生)ことを神様は願っておられる。
新しい人生=イエスという方を通して満たされる人生
私たちクリスチャンとは?
⇒第1ペテロ1:21 復活されたイエスに栄光を与えられた神をキリストを通して信じる者

私たちの信仰生活は、イエス様の十字架で終わるものではない!
イエス様を信じることで、永遠の命が与えられている。
イエス・キリストを通して、私たちは苦しみの中を通りつつも勝利が与えられ、神様から慰めと励ましが与えられる。
私たちは復活の証人である。
復活の主と共に、私たちは働いている。
復活こそが、私たちの人生の土台であり、私たちは希望の中に生かされている。
聖霊様の細き御声を聞いていくならば、私たちの命が内側からあふれ出ていく人生へと変えられていく。

私たちの信仰生活には、古い生き方を捨てることで十字架にかかるという涙があるが、古い自分に死んでいくならば、私たちには新しい人生を生きていく希望がある。

4/18(日)のメッセージ
詩篇4編 祈りに応えられる主
私たちは、神様を信頼しているから「呼び」「叫ぶ」のである。
詩篇の作者ダビデは、苦しい時に主がゆとりを与えられ、祈りに応えてくださることをすでに経験していた。
苦しい時にゆとりが与えられるのは、信仰者の特権である。
主は、ご自身の聖徒を聖別して用いられる。
「私が呼ぶとき、主は私たちの祈りに応えてくださる」ことを再確認したい。
神様が私たちの祈りに答えられるのには時がある。
⇒すぐに応えてくださるとは限らない!
忍耐をもって主を呼び続けましょう。
神様は私たちの心を探り、私たちに御手を置いて、私たちを愛してくださる方である。
また、神様に求め方を間違えると、それは自分に返ってくる。 

4/25(日)のメッセージ
今日は、ゲストスピーカーS先生による特別礼拝でした。

「何から救われたのか?VS何のために救われたのか?」詩篇139:16
私たちは、母の胎内にいるとき(生まれる前)から、神様の計画が書き記されている。
私たちが救われたには、召しがある。
天地創造の前から、私たちは神様から選ばれていた。

(エペソ1:4)
イエス様の十字架による贖いの計画は、初めから立てられていた。
つまり、神様は人間が罪を犯すということを初めから想定されて、人間に自由意志を持たせていたのである。
マタイ15:21~28では、カナン人の女が、テーブルから零れ落ちるパンくずをいただいて救われるという有名なたとえ話がある。
この中で、彼女はイエス様から「イスラエルの滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と断られ、その信仰を試されていた。
ここで、イスラエルの滅びた羊とは、アブラハムから出た子孫を指しており、これは今日の新約教会にまで受け継がれている。
私たちはテーブルから落ちてくるパンくずを拾っている子犬のようなクリスチャンに甘んじて自己満足しているだけでは駄目。
「神様の包囲がクリスチャンの上に注がれている。」
と今年の新年聖会で預言されている。
私たちクリスチャンはこの神様からの包囲を受ける特権が与えられている。
私たちの身分は?
選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民
なぜ、私たちがこの身分とされたのか?
闇から光へと招いて下さった方(神)の御業を述べ伝えるため。

マタイ6:30~34で、「空の鳥と野の百合でさえ神様は着飾って下さった。飲み食いや着るものの心配をするな!神の国と神の義をまず第1に求めなさい。」と教えられている。
律法主義には、宗教の霊がある。
宗教的な霊の働きによって、私たちは感動がなくなってしまい、私たちを神様から引き離す。
また、この宗教的な霊は教会にも入り込んでくるから、打ち破りが必要。
私たちは、イスラエルの滅びた羊(召し出された者)として立ち上がっていくべきである!



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